環境問題

何につけても「環境問題」という語がついてまわる嫌な世の中である。
僕の学生時分、我が恩師が口癖のように云っていたことがある。人間が「地球に優しい」などとほざくのはおこがましい。それこそ地球に対する冒涜であり、自身がいかに「優しくなかったか」を象徴すべき言葉である、と。僕も全く同感であった。そして今、ますますそんな思いが強くなっている。
俺から2サイクルエンジンを取り上げた環境問題を憎む。俺からサンダーキャットを取り上げた環境問題を憎む。個人でちょっとぐらいマフラーなんかを改造する分には環境に大きな影響もなかろうなどとほざく走り屋系の雑誌を憎む。その雑誌どおりに車やバイクを改造して爆音を立てながら走る輩を心から憎む。
環境に優しい製品を作るためにどれだけの資源を無駄にしているのだろうか? 環境に優しい製品といえど、多量に売れたら結果として何も変わらないことがどうしてわからないだろうか? エコマークを印刷するための資源の無駄にどうして気が付かないだろうか? 経済とは人間だけに通じる何の意味もない物差しであることにどうして気が付かないだろうか?
「悪魔の辞典」という古典的ジョーク本に、「人間」という語の定義が「自身およびそれ以外の種を滅ぼすことを生業とする」というように記述されていたのを思い出す。まさにその通りである。全て滅ぼしてしまえばいいのだ。オオタカ営巣地? それが何だというのだ。オオタカが人間に何をしてくれるというのだ。いなくなれば誰も彼もそのうち忘れ去ってしまう。狼を滅ぼしたら鹿が増えすぎて困った? ならば鹿を滅ぼせばよい。それでまた別の弊害が目に付けばその都度解決策を探せばよい。それを考えるために人類は脳を発達させてきたのではないか。イラク? 北朝鮮? 彼らを敵視する超大国よ、あなたがあくまでも自身が正義であると強弁するのならば、かつてヒロシマ・ナガサキ・ベトナムにしたような仕打ちを有無を言わさず与えればよいではないか。そして世界中が核の炎に包まれた後、少しは地球も静かになるというものだろう。そこに人類が生き残っていないことを、誰がどうして心配する必要があるだろうか? 滅ぼし、滅びてしまえば将来への無用な不安も全て消し去ることができるではないか。
そして僕は「環境」という語に踊らされる哀れで愚かな人たちを嘲笑する。そして僕はそんな哀れな人々と離れては生きていけない愚かな自分をも嘲笑する。
せめて僕はガソリンを燃やして地球温暖化の促進に寄与しよう。せめて僕はタイヤとブレーキパッドを削って大気中に粉塵を散布しよう。
2003/03/11