さよなら、黒猫(1)

さようなら、黒猫。
ありがとう、黒猫。

なぜ僕は黒猫を捨てるのか

BMW1100RSの契約が締結されたことにより、僕が所有する2台のYZF600Rのうち古い方、通称「黒猫」の廃棄処分が決定した。ショップ側の作業状況にもよるが、早くて今週末、遅くとも連休前にはRSの納車が可能となる。その時が黒猫の最期になる。

先週あたりから、別れを惜しむ意味もあって黒猫を通勤に駆り出している。いわば「最後のご奉公」。
日常の使用で感じるのは、クラッチの繋がりの悪さ、シートとサスのヘタリ、ミッションのガタ、キースイッチの渋さ、前ブレーキの鳴きといった経年変化による各部の劣化である。もう一台のYZF、通称「赤猫」に乗り替えると差は歴然で、まず跨った瞬間に車高が少し高いことに気が付く。メインスイッチも軽く回るし、エンジンのメカノイズも小さい。ギアを1速に落とすときの衝撃も柔らかなものだし、クラッチミートにも気を使わないで済む。渋滞のノロノロ運転や交差点などの直角コーナーでも、ギクシャクする度合いは黒猫よりずいぶん少ない。
しかし少々のガタやヘタリを承知で乗り続けると、黒猫の凄まじさが顔を覗かせる。一般道をゆっくり走るといまだに20〜22km/Lという低燃費をマークし、高速道路での最高速度はメーター読み140付近までは余裕で達する。少々のハイペースでワインディングを流すには何の不満も感じないし、コーナリングの不安も全くない。
とはいえ、この調子良さも半日程度の「チョイ乗り」レベルでの話。丸一日経つと、ギアチェンジの衝撃やクラッチミートの気遣いによる疲れの蓄積が目に見えるようになる。具体的には復路で「もういい、早く帰りたい!」という思いが先に立って不必要にペースが上がってしまうか、一旦休憩に入るとそれがかなり長時間に渡ってしまうかのどちらかの行動パターンが現れる。
不必要なハイペースは疲労を増幅させ、長時間の休憩時間は行動時間を短縮する。その結果、バイクが楽しくないという負の感情が生まれ、心を蝕む。楽しくない、どうでもいいやという思いは自動的に他人への配慮をも失わせる。その心の動きは気付かぬうちに行動へ投射され、投げやり、自虐的、攻撃的になる。相手だって神様仏様じゃないから、追い抜かれたら抜き返す人もいる。煽られれば煽り返す人もいる。そして互いの負の心が重なり合って重大な事故が発生するのだろう。幸いにして僕はこんな負の状態で事故を起こしたことはないので今も生きているけれど、いつ死んでも殺されても不思議ではない走り方が最近は多かった。ヒヤリとする瞬間、けしかけられた相手の反応、逃げ切ったときの不純な爽快感。それらを「バイクライフの一部」と思い込んで楽しんでいる歪んだ自分がいた。

わずか一月半前に10万円近く投資して車検を通したばかりのバイクを手放すなんて、自分でも思いよらなかった。常識で考えても「勿体無い」の一言で済まされてしまう。勿体無い、の対象が「車検を通したこと」と「黒猫本体」のどちらかは微妙なところで、僕からみてもどちらか一方に特定できない。しかし考えてみると、不思議なほどに黒猫に対する愛着が感じられない。その理由を色々と考えていたわけである。
以前、どこかで書いた覚えがある。僕は「JYA4TV−000000XXXXX」という個体に愛着を感じていたわけではなく、「YZF600R」という車種を愛していたのだと。だから黒猫への愛着が失せたことは、同時に赤猫への愛着も消失することを意味している。もしかすると、赤猫が次回の車検を迎えることはないかもしれない。経済状態が逼迫してバイクを1台にしろといわれると問答無用でBMWが残るし、逆に余裕ができたら赤猫を手放して本当に欲しかったK1200RSを手に入れるに違いないからだ。
数年後、僕は多分悔やんでいるに違いない。やっぱり手放すべきではなかった、エンジンOHしてミッションを全部取り替えてやればよかった、あんな軽くて速くてよく曲がる面白いバイクは二度と手に入らないのに...と。でも先の後悔を恐れるが故に今の楽しみまでも逃したくはない。どうせいつかは死ぬ身なら、蟻よりはキリギリスの立場がいい。亀よりも兎でいる方がいい。そうじゃないか。

だから僕は笑って黒猫を追い出し、古臭いBMWを迎え入れよう。そして時代に流されてYZF600Rの新車を手に入れ損なった哀れな人達へ一言を贈ろう。「そりゃあ残念でしたねぇ、最高のバイクだったのに...」と。

【黒猫の頁・目次】 【さよなら、黒猫(2)へ→】